メビウスの環 ― クーブラ・カーン幻想 上島建吉 |
【プロローグ】
コンピューターがひとり歩きして、われわれの知らない所で何を引き起こすかわからない
時代になった。どこかのだれかがネットワークを使って国際市場の投機に参加し、国家予算を
超える額の電子マネーを動かせば世界経済を破綻させることもできるという。そうでなくても
溢れる情報に人間の方が追いつかず、活字で、ネットで、ケイタイで、「今を生きる」企業戦士は
日夜休むまもなく目や耳を働かせていなければならない。それと同時に現代人は一種の
飢餓症状を起こし、ありあまる情報の中にあってなお情報や知識を求めずにはいられなく
なった。押し合いへし合いの電車の中で五分間でも新聞や雑誌を読もうと苦闘する通勤客たち、
歩きながらでもケイタイを耳に当てておしゃべりに余念のない女の子たちーこれはいわば
飽食の中の飢餓であり過食症ではないか。戦争も災害もない社会にあって、彼らは真に情報を
必要としているのではない、自分一人の空白の時間が恐ろしいのだ。五分間でもだまって
想念に耽っていることができないのだ。なぜなら、人生を大脳皮質の表面でしか受け止めない
ために、自己について、人間について、耽るほどの想念を持ち合わせていないからである。
似たような現象が文学研究の分野でも生じている。他の学問分野に劣らずここでも情報や
知識が氾濫し、それを追い求め収集することが文学研究であるかのような観を呈している。
文学作品を論ずる場合でも、まずテクストを読み、そこから受ける印象や問題意識をテクストの
内部で跡づけ解明するのが本来であるのに、それをテクストの外部にある理論や知識の中に
解体する方向で論を進めるのである。そういう「外向的」文学研究者は、テクストを読む前に
テクストについて読むことの方が多い。自分一個の判断で作品を選び、問題を見つけることが
不安なのである。そうして選ばれた作品や作家は、解体されて既成の知識体系の中に組み
入れられ、それ自体の生命と魅力を奪われてただの「モノ」、研究材料と化す。われわれは
解体するために殺すのだ。そういう場合、論文末尾の参考文献のオンパレードが、文学解体
業者が屠殺に使った諸道具を誇らしげに展示しているかのように見えることがある。
もちろんすべての価値ある文学論が資料や文献なしで書かれるとは思っていない。そういう
ものを不可欠とする純粋に学術的な論文があることも知っている。しかし私が言いたいのは、
文学は他の諸科学と違って、その本質において個人のヴィジョンの問題であり、情報や
知識の集積によっては解明し得ない要素を含んでいることだ。そういう要素、つまりヴィジョンを
取り上げ、明解な形で言語化する試みの一つとして私は以下の論考を書いてみた。
さてここに「クーブラ・カーン――夢の中の幻想。断章」と題する全五四行の幻想詩がある。
(注1)作者はサミュエル・テイラー・コウルリッジというイギリスロマン派の詩人。書かれたのは
一七九七年だが作者はしばらくこれを公表せず、一八一六年になって初めて、これに謎めいた
序文を付け他の詩と一緒に出版した。本論に先立って、これだけが君の知り君の知るべき
すべてである。本論中にコウルリッジ以外の作家や批評家が顔や口を出すことはきわめて
稀である。できれば原書テキストをご用意いただけると理解が早いが、絶対必要というわけ
ではない。
それでは行こうか、君とぼくで。文献のいらない幻想の国へ。かつてだれも行ったことがない
ヴィジョンの里へ。ひょっとして君はそこに、忘れていた君自身を見つけるかもしれない。
I ここはどこ? 彼はだれ?
ザナドゥにクーブラ・カーンは
壮麗な歓楽宮の造営を命じた。
そこから聖なる河アルフが、いくつもの
人間には測り知れぬ洞窟をくぐって
日の当たらぬ海まで流れていた。 (1−5)
われわれはいきなり、得たいの知れぬ風土と時代に連れてこられる。たしかにザナドゥも
クーブラ・カーンも実在の地名であり人名であるが、その固有名詞の耳慣れぬ響きは、君を
非日常的世界へと導くのに十分であろう。さらに「聖なる河アルフ」とくれば、一層秘境的な
ムードを濃くし、われわれを神秘と謎に包まれた幻想に誘うかと思われる。
だがここで介入してくるのが事実愛好、知識偏重の注釈者、解説者の諸氏である。幻想を
幻想として読むことを知らない彼らは、文学的テクストをすべて百科事典に還元することを
もって仕事と心得ている。なかでも固有名詞に対しては敏感であり、ザナドゥやクーブラ・カーン
などは猫に鰹節というところだろう。しかし「聖なる河アルフ」や「日の当たらぬ海」など、どこの
百科事典にも載っていない架空の地名や土地の詮議となると、かなり高度な学問的作業を
必要とし、その道の専門家にご登場願わなければならない。コウルリッジに関してそうした
専門家を一人だけ挙げるとすれば、その名も『ザナドゥへの道』と題する驚異的な研究書
(一九二七)を世に残したロウズ教授(注2)をおいて他にあるまい。彼は文学はもちろん、
哲学、科学から旅行記、航海記に至る広範な文献を渉猟して、「クーブラ・カーン」を始め
コウルリッジの主要作品に出てくる情景やイメージの淵源を克明に調べ上げた。それは創作
過程における詩人の潜在意識の働きを文献的事実に即して跡づけようと試みたもので、
単なる注釈の域を越えている。筆者もその実証主義的真摯さには畏敬の念を禁じえないが、
テクスト間における事実相互の因果関係を立論の基礎としている点で、やはり解体業者の
一人に数えるべきであろう。
実証的合理主義によるこのような幻想の解体作業はコウルリッジも計算に入れていたに
違いない。一八一六年にこの詩を出版するとき、彼は「夢の中の幻想。断章」という副題を添え、
次のような序文を付した。