歌劇『魔笛』の魔法はキッチュである
池田博明
オペラは奇妙な芸術である。たとえばヴェルディの歌劇『リゴレット』を例にとろう。
マントヴァ公爵の歌う「女心の歌」は調子の良い歌で、拍手喝采されるものの、「女心は風のように変わる」という歌のモラルを賞賛する人はいないだろう。スパラフチーレとマッダレーナの殺人計画の二重唱も見事なものなので、大喝采されたとしても、私たち観客は殺人を承認したわけではない。見事に歌われれば歌われるほど、観客はプラスの価値観を持ってしまうが、もとの音楽は呪詛や憎悪などの否定的な価値や負の価値を歌っている場合も多いのだ。しかし、観客は素晴らしい音楽を聞くと、その人物、あるいは感情がプラスの価値をもつものと誤解してしまいやすい。
なぜ、最初にこのようなことを言う� ��かというと、歌劇『魔笛』の夜の女王とザラストロのどちらが善で、どちらが悪なのかという問題に関わっているからである。
夜の女王の有名なアリア、第一幕の「恐れるな若者よ」にしても、第二幕の「復讐の炎は燃えて」にしても、技巧的な見事なアリアなので、つい私たちは夜の女王の味方をしたくなってしまう。
また、ザラストロのアリア、「この聖なる殿堂には」が低い声で魅力的に歌われると、私たちはうっとりしてしまい、ザラストロの価値観に組したくなってしまう。そして、台本の展開が奇妙に思えてしまうのだ。
チェコ国立ブルノ歌劇場の『魔笛』公演を見て(2001年6月16日、渋谷オーチャード・ホ−ル)、最初に感じたことは、モーツアルトの音楽の雄弁さであった。どの人物にも魅 力があるのだ。(この公演では台詞を削ったり、群衆場面を設定して装置の出し入れを群衆が行うことで、場面展開を早くする工夫をしていた)
[→ウィーン国立歌劇場のショップで販売しているTシャツ]
アッティラ・チャンバイの『魔笛』論、「《魔笛》の秘密、あるいは啓蒙主義の帰結」は大変に魅力ある優れた論文なので、これを上回る考察をすることはほとんどできそうもないが、自分なりに物語の進展にそって、解説を試みてみよう。ちなみに、シャイエの『魔笛 秘教オペラ』(白水社)も、たいへん説得力のある考察を展開していた。シャイエ自身は「構造」という用語を用いていないが、構造主義的な分析である。シャイエの分析は★で示した。
山田正紀のSF大作『ミステリオペラ』(2001� ��、新潮社)に出て来るミステリオペラは『魔笛』だが、解釈にシャイエの構造分析がかなり取り入れられていた。
宮崎駿監督がアニメ映画『千と千尋の神隠し』の紹介で、"大人はどうしても既知の引き出しに入れて作品を解釈しようとする。それが大人の弱点だが、子供は作品のすべてを感じ、理解することができる"と話していた(2001年7月14日NHK)のが印象深い。
『魔笛』の鑑賞のしかたのコツはそんなところにあるのかもしれない。
その音楽は繰り返し聴いても飽きの来ない素晴らしい作品である。
[四コマ・マンガは池田理代子『知識ゼロからのオペラ入門』(2010年、幻冬舎より)]
■ゲーテは言っている。
"「観客は舞台を見て楽しめば十分である。その際、その高尚な意味が(フリ� ��メソンの)入信者たちに見落とされることはないのだから」。ゲーテは特に《魔笛》を高く評価しており、その台本まで手に入れて持っていた。そして自分がその続編を書くんだとついに1820年にその断篇を出版するまでに至っている。また、ゲーテの義兄ヴルビウスは《魔笛》の改訂台本を完成し、1792年にワイマールで上演までしている気の入れようだった。ちなみにゲーテもまたフリーメーソンの会員であった。"(石井清司『モーツアルトをめぐる人々』)
ロマン・ロランの言葉、「モーツアルトは特に三つの作品で崇高なものを表現した。すなわち<レクイエム>と<ドン・ジョバンニ>と<魔笛>である」(『モーツアルト頌』より)
■台本作者が誰かという問題を提起した人々は、"近代の「完結した作品」というレベルか らものを言っているのだった。そう、モーツアルトの死は転換点なのだ。近代自我の天才が姿を現わし、パターンの引用が愚作に見え始める、そういう転換点なのである。
ともあれモーツアルトはまだ天才ではない。日銭稼ぎのようにふたりは民衆劇に着手する。・・・・ふたりは場面ごとに共同して構成していったのであって、音楽がほとんどもう最後までいっていただとか、芝居の結構がすっかり考え抜かれていたというわけではない。つまりこの作り方の眼目は、場面場面がいかに見栄えがするか、であって、全体の思想ではない。"(原研二『シカネーダー』p.200)
■"『魔笛』は当時としてはごく普通に、あるヒーローのイニシエーション劇として受けとめられ、その参入の秘儀、およびヒーローとともに導かれる世� �の精神的な高さが有り難られた。・・・されば、のちにベートーヴェンは友人シントラーをパパゲーノとからかい、甥っこの母親を蛇蠍のごとく嫌って「夜の女王」と呼んだ。むろん善玉悪玉のコントラストの明快な舞台だった。"(原研二、p.220)
■「その時、歴史が動いた」(2008年4月9日)で、《音楽の市民革命》としてモーツァルトの『魔笛』初演を取り上げた(初演の日は1791年9月30日)。モーツァルトが神童としてほめ讃えられていた時代、音楽は貴族のためのものだった。しかし、ザルツブルグの司教と対立してウィーンに出たモーツァルトは貴族のための音楽と訣別し、自分の音楽を模索していた。貴族階級を批判したオペラ『フィガロの結婚』の上演に成功したモーツァルトは、フランス革命後、市民のためのオペラ� �取り掛かった。それが『魔笛』だった。夜の女王が象徴する古い慣習やしきたりから主人公は様々な人々との出会いや試練によって平等と自由の世界に導かれる。『魔笛』は大衆劇場で上演され大喝采を博した。モーツァルトの音楽は「市民を楽しませる一種のポピュラー音楽だったのだ」(横浜国立大学・小宮正安)。ディレクターは三木章弘。
番組中、使用されたオペラの映像は『ミトリダーテ』はポネル演出作品、『フィガロの結婚』はミラー演出作品、『魔笛』はデーヴィス指揮作品。
■"《魔笛》台本には、それこそ古代エジプトの文書のように、あちこちで解読不能の欠損部分が出来てしまっている。特に私が気になるのは、セリフの部分が総じて破格に長いことである。聴衆に受けもしない話題を、これほど延々としゃべりつづけるなどということが、民衆劇で考えられるだろうか?
これらのセリフは絶え間なしに、聴衆のしたり顔やしかめっ面や爆笑を誘ったはずだ。"(岡田,2008,p.184より)
序曲:神殿の儀式で奏される三和音のファンファーレで始まる。三はフリーメーソンにとって、重要な数である。夜の女王の侍女が三人、童子が三人。序曲の中盤から後半は生き生きした音楽。
★シャイエは三和音と数えるべきではないと言う。長-短長-短長というリズムは5という数字を意味していて、フリーメイスン結社の象徴体系では女性原理を示すものだという。3の男性原理と対立する原理である。シャイエは徹底してフリーメイスンの象徴の物語、特に「昼」と「夜」、「男」と「女」の対立として『魔笛』を解読しており、「善」と「悪」の対立の物語ではないと主張している。
シャイエによる『魔 笛』の象徴体系の解読
− ザラストロ − | − 夜の女王 − | → |
| 《太陽》 | | 《月》 | |
| − 《火》 タミーノ | | 《水》 パミーナ | → |
| − 《空気》 パパゲーノ | | −《大地》 モノスタトス | → |
↓ | ↓ |
(登場人物のうち、《空気》の象徴パパゲーノと《大地》の象徴モノスタトスの位置は最初は逆転している)
フリーメイスンの象徴体系
Jakin柱 | Booz柱 | 二元論 |
オシリス | イシス | |
男 性 | 女 性 | |
太 陽 | 月 | |
昼 | 夜 | |
火 | 水 | |
金 | 銀 | |
能 動 | 受 動 | |
3 | 5 | |
赤 | 白または黒 | |
啓 発 | 無駄口 | |
牡牛座 | 双子座 |
第一幕。
▽第一場/第1曲「助けてくれ!」。竜に追われた王子タミーノが登場する。ブルノ公演では、竜は四人で扱うほどの大きな仕掛けだった。夜の女王の侍女たちはそれぞれ傘を持っており、その傘を銃のように扱って、竜を殺す。傘を持つ魔法使いは"メリー・ポピンズ"を連想させた。侍女が現われてから竜が死ぬまでは、ものの数小節しかなく、展開の早さと呆気なさに唖然としてしまう。この場面の転換の早さはさらに続き、タミーノの姿に見とれた侍女たちはお互いに争うかと思えば、アッという間に三人そろって女王に報告することに決める。「だめよ、だめ(ナイン、ナイン)」と三人のかけ合いとなる歌の滑稽さも特筆できる。この三人の侍女は私の好きなキャラクターで、魔法の他愛な� ��が目立つ歌である。そもそもこの場面の魔法は、まがいもの(キッチュ)っぽいことが了解される。
モーツアルトの歌劇を現代化した演出で話題を呼んだピーター・セラーズも、『魔笛』は現代化できなかったようだ(演出はしているが)。『魔笛』の魔法は、かなり単純で安易である。
また、この歌劇には濡れ場が無い。悲劇的な場面も少ない。『魔笛』の上演回数が多い原因は、そんなところ、つまり、誰でも安心して見ることが出来ることにあるのではないだろうか。
▼図は1791年シャーファー作『魔笛』第一幕セットのスケッチ。おそらく初演時のもの。このコピーではきちんと写っていないが,三人の侍女は顔にヴェ−ルを垂らしている。
★シャイエによると、"タミーノが「日本」の衣裳を着ているのは《太陽》の出る東方の国から来たからである。
調性からは侍女たちの「勝った」という勝利の三重唱 に示される変ホ長調が入信式の調性である。しかし、侍女の喜劇的な三重唱からはト長調、そしてハ長調と「世俗的」で「軽薄な」調性に移行する。"
死は瞬間である。
▽第ニ場/第2曲「おいらは鳥刺し」。通常はパパゲーノだけで歌われるが、今回のブルノ公演では歌詞に合わせて、背景に女や農民たちがたくさん登場して、うかれ喜ぶ踊りの場面が挿入されていた。単純な旋律の三番まである有節歌曲なので、このような演出は効果的である。
パパゲーノは王子タミーノとは異質の世界に住むが、明らかに人間で、しかも庶民であることが分かる。ところが、
"パパゲーノという名前はオウムの昔の言い方、パプゲーに由来する。オウムは多くの神話のなかで仲介者としての役割が与えられている。・・・さまざまな色にきらめくその羽はこの鳥を特徴づける意味の多義性とみごとに調和するといってよいだろう"(アニー・パラディ,1999)
"パパゲーノという道化は、体から直接 羽が生えているのであって、鳥の仮装をしているのではない。つまりほんとうに半人半鳥という不思議な姿をしているのだが、じつはイタリアの芝居に一大勢力を張るプルチネッラという道化がいて、この眷属は、どうやらもともと鳥らしいのだ。プルチネッラは鳥を語源とするのにふさわしく、卵から生まれる一族だった"(原研二,2006.p.50)
王子に竜を倒したのは君かと聞かれて、ついパパゲーノはそうだと答えてしまう。▼写真はウィーン国立歌劇場の創立記念切手のパパゲーノ。
第三場/三人の侍女が現われてパパゲーノのウソを咎める。ワインの代りに水を、食べ物の代りに石を与えられ、イチジクの実の代りに口に錠前をはめられてしまう。
★シャイエによると、"パパゲーノのアリアは「世俗的」で「軽薄な」 ト長調である。"
▽第四場/第3曲「肖像のアリア」(タミーノ)。
タミーノは夜の女王の娘、パミーナの肖像を見て、ひと目惚れする。タミーノの歌ではもっとも聞かせどころである。これ以降、タミーノにはあまり良いアリアが用意されていない。歌劇『後宮からの誘拐』のヒーロー、ベルモンテには叙情的な歌が多いのに比較すると、際立った特徴である。
▽第五場/侍女たちがパミーナがさらわれた経緯を王子に語る。
★シャイエによると、"タミーノのアリアは入信式の調性、変ホ長調である。"
★"細密画を見ただけでこれほど急速に感情が高まるというのは今日の我々の目には身勝手であると同時に信じがたいように見える。ところが、十八世紀の観客にとってはそうではなかった。実際、「肖像画の衝撃」は大詰めの「お母さ まの短刀」と同じく、当時の演劇の常套手段であり、そのことに驚くなどとは誰も考えなかっただろう。"(シャイエ、訳書142頁)。
▽第六場/夜の女王が登場する。夜の女王の第4曲「恐れるな、若者よ」。前半は娘を奪われたことを嘆くト短調のアリア、後半は音階練習のような技巧的なこの難曲は、夜の女王が非現実的な存在であることを示すものだと思う。
『後宮からの誘拐』のコンスタンツェのアリア、第11番「ありとあらゆる拷問が」には、夜の女王のアリアの原型のような趣きがある。"初演のときにコンスタンツェを歌ったカヴァリエリは壮大な声量と偉大な技巧を持った歌手で、ルラードと高音を持ち歌の半分以上に用いることを要求した"、この役は男性役に比べて不自然であると、ロシアのモーツアルティアン、ウリビシェフは評している。夜の女王も不自然な役柄である。もちろん、『魔笛』ではそれで当然であるが。◆写真はウィルマ・ リップの夜の女王
★"マッサンのように、アリアの恐るべき(三点ヘ音に達する)ヴォカリーズ(母音唱法)が「登場人物の人工的な性格」を喚起していると言うのは説得的でない。なぜならば、当時そのような声の妙技は、今日とちがって唯美主義者から嘲笑されることはまったくなかったからである。・・・当時のオペラの約束事では、その言葉とそれが表している理念は、誇張的な技巧(持続音、または歌唱)を用いてごく普通に表現されていた。モーツアルトは、それをこの役に利用して習慣に従ったまでである。
しかしながら、このアリアの音楽からは夜の女王がまったく不誠実であるという印象を受けることも確かである。彼女の母親としての描写は驚くほど冷淡で、第17番のパミーナの真の苦悩と同一視するわけには いかないだろう。"(シャイエ、訳書222頁)。
▼グルベローヴァは既にザルツブルクで、夜の女王は第一のアリアのレチタティーヴォでタミーノに本当に本音を語っているのかという問題をポネルと取り上げていた。アーノンクールは彼が長年仕事をともにしたこの演出家と同じ結論を出した。本音か嘘かは完全には察知できないとしておくべきだというのである。このことがテルデック盤では明確に表されている。「そなたのような若者がもっとも相応しい」のフレーズをそれに続く「この深く陰った母心を慰めるのに」と較べてみれば、歌い手の内心がはっきりと聞き取れる。グルベローヴァはかねてからゆっくりとしたト短調部分で深く傷ついた、見せかけでない心情を出すことを重んじていた。「女王もまずは母親、それをこ のアリアでは忘れてはなりません」。この点ではまだ補足して置かなければならないことがある。グルベローヴァはここでの女王の「まだ彼女の不安にうちのめされた震えが目に浮ぶ」とドンナ・アンナの「哀れな胸の痛手を思い」との類似を指摘する。ヴァイオリンが同じリズムの刻み方をし、ヴィオラが憂いを表す線を描く。これは女王が決して「非人間的」ではなく、その音楽にヒューマンな面を持つ人物であることの決定的手掛かりである。またグルベローヴァは第一のアリアの華麗なコロラトゥーラ「彼女は永久にそなたのもの」で歌詞を慎重に強調しつつ、それに気配りある控え目な陰をつけているが、こちらはタミーノを餌で釣り、彼におもねるかのようである。役を多元的に演じられるのは、彼女のような多様な歌い分け� ��才あってこそである。(リショイ『うぐいすとバラ』284頁)
▽第七場・第八場/第5曲五重唱「フムフム」。ウソをついたために、口に錠前をはめられたパパゲーノの言葉のない歌で始まる。侍女たちは、タミーノには魔笛を、パパゲーノには魔法の鈴を渡す。
★"南京錠の色が金色に設定されているのは金色が男性の象徴であることと関連がある。夜の女王も侍女たちも女性のフリーメイスン結社の構成員である。
侍女達が殺す《蛇》は聖書にあるように女性を誘惑するものの象徴である。入信式の第一位階《徒弟》階へ加入するためには未来の《姉妹》は蛇の絵を握っていなければならない。
次の第二位階《職人》位階では《叡智》の果実《リンゴ》を食べなければならない。またおしゃべりを防ぐために検査官は女の口に練り粉で秘密厳守の封印をし、鏝で五度たたく。"(シャイエ、訳書129頁)。
★"魔笛は四大元素を兼ね備えており、完璧である。つまり、《空気》の指図によって使用される魔笛は、驟雨《水》に見舞われ、雷《大地》が鳴り、稲妻《火》の光る嵐の夜、魔法によって作られた。侍女が言っているように「人間の情念を変え、憂鬱な人間を陽気にし、女嫌いに恋心を起こさせる」、音楽それ自体である。"(シャイエ、訳書144頁)。
★"鈴=グロッケンシュピールは《大地》の徴をもった楽器である。"(シャイエ、訳書146頁)
■"熱狂的なモーツァルティアンにして、大の《魔笛》嫌いだ� �たキルケゴールに言わせれば、「タミーノのフルートは全然音楽的な形姿になっておらず」、「きわめて退屈でセンチメンタルである」(私も実は同感である)。なぜそんなことになってしまうかといえば、「《魔笛》のあやまりは、作品全体が意識を志向しており、したがってその本来の傾向が音楽を廃棄するという点に存し、それにもかかわらずオペラであろうとしている」点にある。"(岡田,2008,p.198より)
■原研二の論文"キーワードで読み解く『魔笛』"は傑作(2006年、ショパン刊)。
【魔法の笛】 「魔法の笛」は野獣をなごませる不思議の力を発揮する。楽器によって動物と心を通わせる代表的な先輩が、音楽神オルフェウス。・・・種本『ルル』では、夜の女王は夜だけではなくて獣の繁殖した森の主なので、狩猟民の神話風にいうと、獣を治める「女主」のような気配がする。その女主からもらうのが、獣と交歓する楽器というのだから、音楽神オルフェウスの牧歌風景よりもっと古い話が、タミーノに響いている。(p.48より)
▽場面変わって、ザラストロの居城の一室。
第九場・第十場はザラストロの奴隷たちの会話だが、ブルノ公演では省略されていた。
▽第十一場・第十ニ場/第6曲三重唱「かわいい子よ」。囚われのパミーナに言い寄ろうとするザラストロの奴隷モノスタトスだが、パパゲーノが登場して、二人は、お互いを悪魔と思いこんで、いったん退散する。
▽第十三場。残されたパミーナの独白。
★"モノスタトスは黒く、パミーナは白い。白と黒はどちらも月と女性の色であるが、一方は長所、他方は短所といった具合に二つの異なる面を表している。(シャイエ、訳書236頁)
パミーナは気絶するが、この「気絶」は「通過儀礼の試練」である。既にタミーノが第一幕冒頭で「気絶」していた。気絶は死の瞑想から未来の生への新たな復活という観念を表す。喜劇的なエピソードに隠されている象徴的な意味である。"(シャイエ、訳書148頁)
私はあなたを検索します
▽第十四場/第7曲二重唱「愛を感じる男の人たちには」。パパゲーノとパミーナの二重唱。
ベートーベンが惚れこんで、変奏曲を作った美しい曲である。愛こそがすべてで、愛の目的は男と女ほど高貴なものはないということだと歌われる有節歌曲。モーツアルトはパミーナに人間的な美しい歌を用意し、パパゲーノ(とモノスタトス)には人間的な楽しい歌を用意した。
「男と女」と歌われ、次に順序を替えて「女と男」と歌われる、恋愛の世界では男女は対等という表現になっている。『魔笛』の中心にあるザラストロ教団の男尊女卑の精神とは異なった、画期的な二重唱である。
▽パミーナは夜の女王の娘なのだから、魔女であるはずなのに、奇妙なことに魔女の資質も能力もまったく見せることなく、ただの� ��間でしかない。しかし、庶民ではなく、身分は王女であるから、王子と結ばれる運命にある。パミーナはパパゲーノと二重唱はするものの、お互い「名前は知っていたし、感じのいい人だから、好きになった」とは言うものの、愛を交わしたりする素振りは無い。パパゲーノはパミーナを確認するときに、「瞳は黒、唇は赤、髪は金髪」と部分的に確認し、「肖像の絵姿からすると、あんたにゃ手も足もないはずだ」と言って、私たちを微苦笑させる。
★"この二重唱はフリーメイスンの高尚な教訓の調性である、変ホ長調。"(シャイエ、訳書240頁)
ちなみに、『魔笛』のパミーナの歌はすべて美しい。ブルノ歌劇場公演のパミーナ役イヴェッタ・タンネンベルゲロヴァーの歌唱は素晴らしかった。
▼ところで、パミー� �が夜の女王の資質を受けついでいないことは別に矛盾ではないという。エジプトが舞台なので、"エジプトの神々の世界では、女性の卵子(種子)はカヤ起源となるのではなく、生成のための素材ー男性の種子を育てるだけーであると考えられていた。。したがって、パミーナは父の属性を継承するが、夜の女王の属性を継承することはない"(塩山千仞)と。
◆写真はシュティッヒ・ランドール。パミーナはもちろん、フィオルディリージ、コンスタンツェ、ドンナ・アンナ、伯爵夫人なども歌った。
▽第十五場。舞台は変わって、神殿の前。三人の童子たちがタミーノを導いて来る。
第8曲「フィナーレ」。童子たちが「この道を行けば」と導き、タミーノは自分の使命をあらためて自覚する。タミーノが第一の扉を叩こうとすると、「下がれ」と声がする。第二の扉も同様で、第三の扉からは弁者が現われる。弁者はザラストロの徳を説き、タミーノが女にだまされているのだと話す。弁者が去り、パミーナの生死を問うタミーノに合唱が「パミーナは生きている」と答える。
▼"この超自然の声は《イドメネオ》の宣託シーンや《ドン・ジョヴァンニ》の石像と同じトロンボーンの伴奏がつく。モーツアルトにとってトロンボーンは"Tuba Mirum(ふしぎなラッパ)"のことであり、超自然の出来事を表す楽器であった。従って彼は滅多にトロンボーンを使わない。"(石井宏、《魔笛》ライナーノーツより)。
★"三人の侍女はタミーノを案内することが出来ない。彼女達はヴェールで顔を包んでいる。女性が完全な《知識》に近づくことは決してないからである。したがって、彼女たちにはザラストロの国にタミーノを案内する役目を務めることができない。これが三人の童子の由来である。(シャイエ、訳書134頁)。童子の聖歌はハ長調。変ホ長調でないのは場面の継続に手落ちがあったのだろう。"(242頁)
★"弁者の意義は重要である。肉声にチェロを重ねたことによって、神託のような厳粛さを持っている。"(シャイエ、訳書250頁)
▽タミーノが魔笛を吹くと、動物たちがその調べに聞き入る。タミーノは「愛を感じる男の人たちには」と同じ旋律で、「不思議な笛の音」と歌う。パパゲーノの鈴の声が聞こえる。
▼"ライオンや猿を舞台に放つのがシカネーダーは大好きだった。彼の悪趣味はさんざん19世紀にあげつらわれたが、これはこれで大道のメナジュリー(動物見世物)の匂いであって、旅一座の座長にとっては自分の体臭みたいなものだった。彼の現物主義からいえば、ほんもののライオンや猿を舞台に上げたかったことだろう"(原研二、1999,p.223)
■【獣たちがぞろぞろ】【からくり命の機械オペラ】気球・割れる岩山・火と水の仕掛け・・・・『魔笛』初演のアウフ・デア・ヴィーデン劇場は十八世紀の機械芝居を担うに足りる規模・仕掛けを持った劇場だった。とはいえ、効果狙いのあざとさということで、西欧の機械愛好家を説明できるわけではない。
古くからの見世物には、機械舞台にこめた西欧人の願望をもっと原型的に体現しているものがある。「テアトルム・ムンディ」という見世物である。演劇研究家はこれを「世界は劇場」という演劇概念として記憶しているだろうが、そうではなくて、ここで例に出すテアトル・ムンディは、キリストの誕生シーンなどを機械仕掛けのミニチュア、つまりジオラマといったもので縁日の見世物に仕立てたもののことであ� ��。
なぜ、そんなトリヴィアルな見世物が「世界劇場」なのか。ここには世界が機械で再現できるという信念があり、神と世界は機械的に連結しているという敬虔な思想が生きていたのだ。精妙に世界を再現すれば、それは「神の世界のまねび(イミタチオ・デイ)」とされる。だから機械仕掛けを駆使するオペラも、世界劇場としての役目を負っていたのである。"(原研二、2006,p49)
▽第十六場。パパゲーノとパミーナは逃走中で軽妙に「早く行きましょ」と歌う。
▽第十七場。モノスタトスらが二人を捕縛しようとする。パパゲーノが魔法の鈴を鳴らすと、モノスタトスらは浮かれてしまい、ララララと唱和しながら、去っていく。観客は爆笑!
★"タミーノの笛とは違い、鈴は仙女物語の魔よけとして扱われており、奴隷たちの「これはなんと素敵な響きだ」の出だしは、「早く行きましょ」の逆音型である。この魔法の場面は『オベロン』から借用されている"(シャイエ,258頁)。
▽二人は二重唱を歌う(「愛を感じる〜」の一部を使っている)。奥の方から「ザラストロ万歳」の声が響いてくる。パパゲーノはあわてる。パミーナは「たとえ罪を犯したとしても、真実を話すしかありません」と 覚悟を決める。パミーナの「真実」に価値を置くこの潔ぎよさは、『魔笛』の最も重要な特徴である。"この「真実」の誇張には意味がある。モーツアルトの所属していたフリーメーソンの支部の名称が「真実」であったからだ(金子一也,124頁)"。
★"この合唱の主題は『タモス王』の冒頭の合唱「太陽讃歌」から借用されている"(シャイエ,260頁)。
▽第十八場/パミーナとザラストロ。パミーナが「私は逃げようと罪を犯した女です」と告白すると、ザラストロは「お前の母親の尊大さから守るのだ」と答える。
▽第十九場/モノスタトスがタミーノを捕縛してくる。タミーノとパミーナは、この場面で初めて会う。モノスタトスは二人を引き離す。ところが、ザラストロはモノスタトスに77回の足の裏を打つ罰を科す。モノスタトスが家来たちに連れていかれて、人々は「ザラストロ万歳」とその徳を賞賛するのだが、どう考えてもザラストロの与えた罰は、職務に忠実な家来に対して理不尽である。"モノスタトスがパミーナに対して誘惑し、恋愛禁制を破ったことに対する罰であった。この罰則はカトリックの僧侶が自分たちや家来の奴隷に対して課していた禁制であったのである(金子一也,125頁)"
■ストーリーの前半は、18世紀の童話のひとつのタイプとしての"救出劇"である。お姫様が悪者につかまっている。それをよその国� ��ら来た王子が三枚目を連れて救い出しに行くわけである。順当に行くと第2幕でこのストーリーは、悪魔ザラストロが仕掛けるいろいろな魔法に、王子が《魔笛》の力を借りて立ち向かい、無事に姫を救出し、ふたりは永久に結ばれるという話になったはずである。
ところが、第1幕の終わりのところで、突然ストーリーは一変し、ザラストロは聖者となり、姫を救出に来たはずのタミーノはこの聖者のもとに入門し、試練を受けることになる。この部分から先は、フランス人テラソンの書いた『セトスの生涯』からの借用であるところの"試練劇"が続く。
このふたつの部分には全く共通の点がない上に、どんでん返しをやるために作者が心構えをした形跡もまた見られない。そこで、ストーリーは作曲の途中で変更され、� ��でに曲ができた部分についてはそのままにしておいたのだという仮説ができた。
では、どうして変更したのか、という点になるとだれにも決定的なことは言えない。いろいろな説がある中に、現在一応信用されているのは、作者(おそらく複数)が途中でこれをフリーメーソンの思想劇にしようと思いついたためだという説である。・・・・何故そうなったのかは別としてこの継ぎ目のために、《魔笛》のストーリーは支離滅裂になり、人物の行動理由がでたらめになってしまったことは否めない。(石井宏、サヴァリッシュ盤のライナーノーツの解説より)。
★"台本が単なる戯曲にすぎないならば、ザラストロの裁きと合唱の説明は不合理であろう。なぜなら、要するに牢屋の番人であるモノスタトスは表向きには自分の� �めを実行したにすぎず、そのために彼のその仕事を課した人から罰せられているように見えるからである。しかし叡智の化身であるザラストロはなかば神なのである。彼は、みずからパミーナに語ったように、人びとの心の内を見抜いている。したがって、彼は腹黒い男がどのような恥ずべき動機から若い娘を見張っているのかを知っており、それゆえにこそ彼は七十七回(叡智の数である七の倍数)ムチ打って罰するのである"(シャイエ,262頁)。
★"フィナーレの合唱「徳と正義が偉大な人びとの道を栄光で覆うとき、そのとき、この世は天国なり、人間は神々に等しいものとなる」。これは「男と女」に類似したフリーメイスンの教訓である。全オーケストラでハ長調の大合唱によって一語一語宣言される。・・・「神々に� �しいものとなる」。これこそ劇全体が目指している最終目標でもある。"(シャイエ,264頁)
■"《魔笛》は「転向の物語」として読まねばならない。それ以外に読みようがないということである。・・・一体タミーノたちは、何から何へ転向するのか? 答えは比較的簡単に見出せるはずだ。母権から父権へ。魔法が支配する闇から理性が司る光へ。女王の支配する宮廷社会から啓蒙主義者たちに導かれる市民社会へ。つまり旧体制から近代へ。これが最も妥当な解釈だろう。初演から四年後の一七九五年にロンドンで出版された、ウィーンの宮廷の官吏によると思われる『オーストリア国におけるジャコバン主義者の陰謀組織の歴史』は、このオペラが革命を暗示するものであるとし、ザラストロは啓蒙的な立法の叡智を、夜の� �王はルイ一六世の治世をあらわすものとしている。同時代人にはこれが、旧体制からの脱出の物語であることがすぐに分かったのだ。
だが何よりも重要なのは、この台本をモーツァルトがいかに理解したかを、音楽そのものに即して検証することだろう。・・・宮廷的音楽文化から市民的音楽文化へ。《魔笛》は、音楽的にもまた、一種「改宗」の物語である。"(岡田,2008,p.186より)
■"《魔笛》の音楽様式の一つの特徴は、この徹底した「綜合性」である。夜の女王が象徴するオペラ・セリアの世界、三人の侍女におけるセレナーデの残響、パパゲーノが歌う民謡、モノスタトスにつけられたトルコ風の音楽、パミーナとパパゲーノのニ重唱におけるドイツ・リート風の旋律、ザラストロや僧侶たちのコラール、そして第� �幕および第二幕フィナーレにおける合唱のオラトリオ的な響き。これほど多種多様な様式を用いたオペラは前代未聞だっただろう。宮廷、民衆の世界、異国、市民社会、賢人たちのサークル、そして教会、− 世界で鳴り響いているさまざまな音楽様式が、ここで統合されているのである。"(岡田,2008,p.203より)
イエス、あなたは何も不思議です。
第ニ幕
第ニ幕は第一幕に比べると、精彩を欠く場面が多い。それは、主にザラストロの教団の音楽の部分が荘重だが、単調で、歌詞の論理も女性を一方的に非難する硬直したものだからであろう。アッティラ・チャンバイは"ザラストロの国では純粋な理性だけが有効であり、その理性は古来のあらゆる魔法のみならず、抑制のきかない心情やあけっぴろげな感情はすべて(神経症的に)嫌っているのである。感情の冷たさと合理的な計算によって、圧制と横暴がより容易に行えるのである"と指摘している。
▽第一場/第9曲「僧侶たちの行進」および第10曲ザラストロのアリア「オシリスとイシスの神よ」。ザラストロはタミーノに試練を受けさせ、その後にパミーナと結婚させることを提案して受け入れられる。
第三場/弁者はタミーノとパパゲーノに「沈黙の試練」を与える。パパゲーノは試練なんかまっぴら御免と断るが、パパゲーナの存在を知らされて少しだけ心を動かす。
▽弁者と第二の僧は第11曲二重唱「女の妖計から身を守れ」と諭す。この歌では、男がだまされるのは女のせいだと、一方的に女を批難する論理が展開される。女性好きのモーツアルトがこのような論理を持っていたとは考えにくく、皮肉な小曲となっている。
▽第五場/第12曲五重唱「どうしたの、どうしたの」。試練中のタミーノが言葉を話さないので、夜の女王の侍女たちが問い詰める。パパゲーノは、理由を話しそうになるが、タミーノに止められる。あきらめて去ろうとする侍女たちに、僧らが「聖域は汚された、女どもは地獄に落ちて行け」と命ずると、侍女たちは恐ろしい音楽とともに奈落へ落ちていく。唖然とする二人の前に弁者が現れ、タミーノを「男らしくしっかりした態度で試練を越えている」と評価する。
▽第七場はザラストロの庭園の中である。眠っているパミーナの傍にモノスタトスがやって来る。パミーナへ横恋慕するモノスタトスの異国調のアリア、第13曲「誰でも恋の喜びを知っている」。敵役であるにもかかわらず、単純な旋律であるが、魅力的な小曲が歌われる。
■"「(モーツアルトのオペラの)登場人物は自然そのものであり、普通の道徳的な意味での善人でも悪人でもない」とは高名なモーツアルト研究家だったヘルマン・アーベルトの言葉である。「悪玉」を「善玉」よりも魅力的に描くことで人物のステレオタイプ的な類型を突き崩し、「生きた」人間模様を作りだすのがモーツアルトである。""このヒューマニズムの裏には,真摯な感情を容赦なく茶化してみせる恐るべき冷笑が隠されていることもまた� ��れてはならない。その典型が『ドン・ジョヴァンニ』であり、『コシ・ファン・トゥッテ』である"(岡田暁生,2001)。
▽そこへ、突然、夜の女王が現れる。モノスタトスを追い払い、パミーナに短剣を渡し、ザラストロへの復讐を勧める。第八場/第14曲「地獄の復讐が私の心のなかに燃え」。
夜の女王の超絶技巧的な歌で、『魔笛』中、もっとも難しい歌である。「なによりも表情に富み、怒りに燃えたアリアである。モーツアルトがこれほどダイナミックな力に達したことは滅多にない。音楽によって表現しうる最も非凡な性格描写のひとつ」(シャイエ,286頁)。ちなみに日本の誇るコロラトゥーラ・ソプラノ・佐藤美恵子は2001年のコンサートで、相当に速いテンポでこのアリアを歌っていた。歌い終えて女王はアッという間に奈落に去ってしまう。
アリアの前に、女王が夫のことを娘に話す台詞がある(省略されることも多い)。「� ��が持っていた《太陽の輪》の守護者はザラストロに遺された。女の務めは娘ともども神に仕える賢明な男たちの導きに身を委ねることだと遺言された」と。
★"夜の女王の大きな過ちはこのような女性に対する男性の優越を受け入れないことであった。彼女は高慢であり、男性の至上権を無きものにしようとする。奪われた娘が選ばれた《男性》と共に上昇し、彼と《完全な夫婦》になろうとする日、彼女の怒りは際限のないものとなる。そこで彼女は娘を頼りにして女性による《男性》制圧を目論むが。この望みが裏切られると、自ら殿堂の中へ忍び込んでそれを破壊しようとするまで理性を失うことになる。・・・女王の行動は少しも逆転しておらず、まったく正常な心理的発展がみられる。・・・パミーナの父の治世は男女両性� �危機を知らなかった。その危機は男女の分離から生れた(夜の女王とザラストロに二分された世界)。タミーノとパミーナが結ばれることによってその争いは解決し、新しい黄金時代が開幕するのである。"(シャイエ,訳書113頁)。
▽第九場はひとり残されたパミーナ。モノスタトスがパミーナと取引をして、彼女の愛を得ようとするが、パミーナに断られる。ザラストロが現れ、モノスタトスを追い払う。パミーナは母親を罰しないで欲しいと懇願するが、ザラストロは見ていなさい、パミーナは王子と一緒になり、夜の女王は自分の城に帰るだろうと予告する。
▽第十ニ場/ザラストロのアリア、第15曲「この聖なる殿堂には」。この聖なる殿堂では復讐心を捨て、愛を義務とせよという歌を歌って去る。テクストにはフリーメイソンの思想がよく表れている。しかし、アッティラ・チャンバイは"説教ふうの非感情的なテクストと、モーツアルトの感情的な音楽の矛盾"を指摘している。これはザラストロが語りかけている相手、パミーナに対する強い思慕の情が音楽に現われてしまったのだというのが彼の解釈である。
★"アリアの最後の「人」というのは《Mensch》(人間)の訳であって、《Mann》(男)ではない。もはや両性の争いではなく、人類が問題だからである。"(シャイエ,訳書290頁)。◆写真はヨーゼフ・グラインドル(バス歌手)
▽第十四場/沈黙の試練を続けるタミーノとパパゲーノ。沈黙が性に合わないパパゲーノはしきりにタミーノに話しかける。そこへ、老婆が現れ(第十五場)、パパゲーナの姿を垣間見せる。ブルノ公演ではパパゲーナは傘で姿を隠しているだけで、老婆の扮装はしていないという演出だった。
★"この場面は無意味な喜劇的エピソードと考えられてきた。しかしながらこの場面には明らかに存在理由がある。パパゲーノは葡萄酒しか好まないのに水を差し出されることになった。そこで彼はそれを飲まずに水を伴侶の頭から注いだ。カップルの完成に必要な女性の徴《水》を付けられることを拒否した。タミーノとパミーナは二人で《火》(男性の徴)と《水》(女性の徴)の試練を受けるのに対し、パパゲーノとパパゲーナのカップ ルは自分の徴を付けるにとどまり、不完全のままに留まるのだ。"(シャイエ,訳書292頁)。
▽第十六場/三人の童子の第16曲三重唱「ふたたびようこそ」。童子たちは二人に飲み物や食べ物を置いていく。パパゲーノは飲み、かつ食べる。タミーノは魔笛を吹く。笛を聞いてパミーナが来る。
▽第十八場/第17曲「ああ、私にはわかる」は、沈黙を通すタミーナに絶望したパミーナのト短調の悲しみの歌。ブルノ歌劇場公演では、パミーナ役のイヴェッタの歌唱の後、客席から思わず「ブラヴォー!」の声が出た。名アリアである。『後宮からの誘拐』のコンスタンツェのアリア第10番「悲しみは私の運命」は、このパミーナのアリアの先駆けと考えられる。
"『後宮』の音楽は、同時代人には前衛音楽と感じられていたことを思い出しておこう。つまり、「演奏の困難さ」と「頻繁な一時的転調と多くの異名同音的転調」で和音進行を追うのが難しく、特に短調のアリアでは、「その半音階的構造のゆえに、歌手は歌うのが困難に、聴衆は理解するのが困難になる」と評価されていたのである"。(岡田暁生� ��
★"転調は避けられている。しかし、苦悩を表す表情豊かな和声的あるいは旋律的緊張の絶え間ない戯れによって、単調さからはまったく免れている。主調はト短調。"(シャイエ,295頁)
▽第ニ十場/神殿内部。祭司たちの合唱第18曲「イシスとオシリスの神よ」。神に感謝を捧げる歌。ザラストロはタミーノに最後の試練に向うように命じる。
▽第二十一場/パミーナ、タミーノ、ザラストロの三重唱 第19曲「いとしい人よ、もうあなたにお会い出来ないのですか」。パミーナの問いに対してザラストロは「喜びの再会ができる」と約束し、タミーノとパミーナは別れを惜しみながら、別の方向に去っていく。この三重唱は、第17曲で絶望のアリアを歌ったパミーナの観点からすると、奇妙なところがあり、公演では省略されることがある。エヴァーディングの演出ではこの三重唱は第9曲の後に挿入されている。メトロポリタン歌劇場のレヴァインの演奏でも同じ位置に挿入されていた。
★"ザラストロはパミーナのヴェールのリボンをほどく。パミーナは自分を迎える沈黙におびえて、婚約者はどこにいるのかと尋ねる。・・・結社がパミーナに《正規の》試練を許すこ とは異例である。彼女は女性だし、なかんづく夜の女王の娘である。しかし、彼女は誘拐され、女王の王国から引き離され。勘当された。思いもよらぬ事情から、タミーノの試練と同じ《大地》の試練を受けた彼女は(第二幕でモノスタトスと《奈落》から登場する夜の女王から誘惑の試練を受けること)、そのとき同等の精神力を発揮した。パミーナは意志に反して、王子の《空気》の試練(16曲から始まるご馳走の誘惑や完全な沈黙)に関与してその犠牲者となった。・・・つまり、夜の王国を出た《女性》は《男性》と対等になり、王子と同様最後の試練を受けることが公的に許されるのである。ザラストロがほどくヴェールは、女王と侍女たちの顔を隠して取り去られることのないヴェールに対する勝利の返答である。それは《女� �》の勝利の女性救済の、そして未来の女性賛美の最初の徴である。"(シャイエ,訳書300頁)。
▽第二十ニ場/残されたパパゲーノはタミーノの後をついていくことを禁じられる。
第二十三場/僧に「試練に耐えられず、不合格」を告げられたパパゲーノは別にしょげるでもない。一杯の酒を望んで、もらって飲む。欲しいものを列挙する陽気なアリア、第20曲「娘っ子か可愛い女房が一人」を歌う。
▼"シカネーダーがメミンゲンで仕入れた民謡だったろうと言われている。同じ曲がプロイセンでは「常変わらず、こころ真直に」と、ウィーンでは「陛下は良いお方」と歌われていた。彼はどうやらシュヴァーベン方言の民謡をモーツアルトに披瀝したのだった。"原研二『シカネーダー』p.203より。
★"パパゲーノに対して、外へ出ようとすると炎にさえぎられる《火》の試練と、弁者が告げる大地の底をさまよう《大地》の試練"(シャイエ,178頁)。
■【道化が出てくるタイプ・オペラ】 パパゲーノという道化は、体から直接羽が生えているのであって、鳥の仮装をしているのではない。つまりほんとうに半人半鳥という不思議な姿をしているのだが、じつはイタリアの芝居に一大勢力を張るプルチネッラという道化がいて、この眷属は、どうやら、もともと鳥らしいのだ。プルチネッラは鳥を語源とするのにふさわしく、卵から生まれる一族だった。
そして《魔笛》そのものが、じつは、イタリア道化芝居のタイプ劇の枠の中にある。どういうことかというと、話のタイプが決まっていて、主人二人の恋と、召使二� ��の恋が、もどきの関係で進行するのである。そうやって見て行くと、いろいろのタイプが組み合わせになっているのもわかってくる。フリーメーソンの聖地エジプトは叡智の源であるという通念、メルヘン・オペラとしての救出劇(《フィデリオ》《後宮からの誘拐》・・・)、絵姿に恋する王子、冒険メルヘンの王子に約束される賞品(トロフィー)としてのお姫様。
道化の衣装がパッチワークでできているのとちょうど同じように、音楽もまた民謡、祝典曲、秘儀、ロマンチックなリートなどつぎはぎであり、お話もまた昔話、神話、秘儀、祝典劇、道化芝居の組み合わせでできているのである。
タミーノ/パミーナ、パパゲーノ/パパゲーナのカップルの誕生。ここまではタイプ・オペラの大団円の決まりである。大方の� �ィーンの歌芝居は、結婚式をもってめでたしめでたしと終わるのである。悪が滅ぼされ、善が栄える。新たな善の始まりとしての象徴儀礼、結婚式が祝われる。(原研二、2006、p.50)
▽第二十四場。先ほどの老婆が出てきて「愛の誓いを立てれば、あんたを愛してあげよう」という。パパゲーノはしぶしぶ誓う。すると老婆はたちまち若い娘に変身するが、(第二十五場)僧たちに連れ去られてしまう。ここからはまだまだ沢山の曲があるが、一気に第21曲フィナーレとなる。
▽第二十六場/三人の童子が登場、「やがて朝を告げ知らせるために輝きわたるのは」。『コシ・ファン・トゥッテ』の第2幕第四場の第21曲フェルナンドとグリエルモの二重唱「かなえておくれ、親切なそよ風よ」を連想させる音楽である。
▽第二十七場/パミーナが登場する。パミーナは絶望して短剣で自殺を企てるが、見守っていた三人の童子に止められる。童子はパミーナをタミーノのもとに連れて行くことにする。
★"このかなり不可思議な場面の意味は・・・パミーナが受ける《空気》の試練である。第一の旅、《空気》の旅は人生の寓意であり、新加入者が通った道の起伏によって表され、障害と威嚇がその道しるべとなっている。当時の演劇精神にはまさにシンメトリーに対する偏見があった。タミーノはいま《空気》の試練を受けたばかりであるから、パミーナが同じ元素の試練を受けるのは当然である。"(シャイエ,訳書174頁)
▽第二十八場/山の中。門の前に立つ二人の鎧武者にタミーノは開門を依頼する。「苦難に満ちてこの道を� ��すらい来るものは」。そこにパミーナが登場し、二人は再会を喜ぶ。パミーナはタミーノに笛を吹くことを頼み、二人は門のなかに入って行く。
▽第二十八場/パミーナとタミーノの二重唱「私たちは烈火のなかを進み」。二人は力強く試練の道を行こうとする。◆写真はタミーノ役のルドルフ・ショック
▽火の試練と水の試練は、フリーメイスンの間で広く読まれたテラソン神父の物語『セトス』(1731年)から、そのまま取り入れられた(井上太郎、塩山千仞)。『魔笛』では、"火と水の試練は参入儀礼以上の象徴的な意味を保有している。つまり、文明史のコンテクストからすると、火の試練は「製鉄」から鉄道の普及の予兆を、水の試練は「航海」からその植民地拡大の予兆を表しているといえる"(塩山千仞)という指摘がある。しかし、これは読み込みすぎであろう。
『魔笛』では火と水の試練の場面は、短い音楽で終わってしまう。それまでの沈黙の試練と比べると、まるで「省略、はい一丁上がり」といった趣きで、音楽的に重要視されているとは思えない。モーツアルトにとっては超越的な声を表すトロンボーンが� ��われている。
▽試練を乗り越えた二人は、僧たちの祝福を受けながら神殿のなかに入っていく。このニ十八場は、感動的というよりも、現代人にとっては物足りなく感じられる。もっともこれは演出のせいもあるかもしれない。ライプツィッヒのヘルツ演出では映像的な工夫がされて、簡潔ながらも意味のある表現をしていたからである。
★"この音楽は簡潔さが印象的である。われわれは試練には立ち会わない(このように試練は秘密である)、そして音楽のなかでそれを強調するものは何も無い。魔法の笛だけが冷静に行進曲を続ける。"(シャイエ,訳書322頁)。
■【賞品としてのお姫様パミーナ】 冒険ファンタジーの究極は、しばしば「お姫様救出」である。《魔笛》もむろん、登場すると気絶する心もとない王子タミーノが、男社会(ザラストロの男結社)へと成熟していく、もしくは「洗脳」されていくほどに、パミーナは青ざめていく。夜の女王は大らかな古代の母神であったものを、それが父権制に移っていけば、悪女に見える他はないのだ。
パミーナに横恋慕するモノスタトスですら、馬鹿な悪党という単純な存在ではない。抑圧された黒い色の人間に、モーツァルトの音楽はどれほど不思議なニュアンスを付け加えていることか。パミーナほんらいの相手は同じパの音で始まるパパゲーノだったのでは? ときならぬ二重唱<男と女>を聞けばわかる。これこそが調和の歌なの� ��あって、賢者ザラストロの世界が祝典曲に包まれているのとは本質が違うのだ・・・。賞品としてのお姫様をゲットする王子の物語は、やわらかくモーツァルトによって批判される。(原研二、2006、p.51)
▽第ニ十九場/再び前庭。「パパゲーナ」を呼びながら、パパゲーノ登場。首吊り自殺を図ろうとするが、首尾よく三人の童子に止められる。童子に魔法の鈴(グロッケンシュピール)を鳴らすように教えられる。
そうだった、忘れていたと、鈴を鳴らすと、パパゲーナが現われる。パパゲーナとパパゲーノ(ソプラノ)が呼び合う滑稽な二重唱「パ、パ、パ」。ちっちゃなパパゲーノ(男の子)、ちっちゃなパパゲーナ(女の子)で、二人の間を満たそうという陽気な歌である。
★"パパゲーノに対する《空気》の試練。空飛ぶ車から(《空気》のなかを通って)鳥女が現われる。"(シャイエ,訳書328頁)。
■"ある日のこと、夜の女王役のヨゼファ・ホーファの夫、バス歌手ゼバスティアン・マイアーがふたりの曲作りに立ち会った。
「おい、モーツアルト! これじゃショーがない」
とシカネーダーがオーケストラのモーツアルトに向って叫んだ。
「ここんところはもっと驚きを表してくれなくっちゃ。ふたりはまず息を飲んで見つめ合う。パパゲーノが吃り始めるのはそれからでなくっちゃいけない。パパ・パ・パパってね。パパゲーナはこれのくりかえし。そうしたらついにふたりは名前をすっかり口にだすってわけさ」
モーツアルトはこれに従い、デュエットが何度もくり返 された。"(原研二『シカネーダー』p.201)
■"このオペラはここで終わっている。後はお決まりの大団円である(石井宏)。 "
▽第三十場/モノスタトスの手引きで夜の女王と侍女たちがやって来る。「静かに、静かに」。しかし、一瞬の雷鳴で夜の世界は滅び、辺りは一瞬で明るくなる。
▽そして、大団円。ザラストロと合唱「やがて朝を告げるために輝きわたるのは」。
★"『魔笛』の筋は・・・見事に構成され厳密な展開の仕方を見せる象徴的なフィクションである。このオペラは、実際に激しい女権拡張反対の立場にありながら、《カップル》の秘儀における女性の変容を称賛し、それによって当時の社会が好んで嘲笑していたあの理想的な愛を復権させるためにしか《女性》を攻撃していない。この非常に稀な愛については、モーツアルトがしばしばそのイメージを懐かしく追い求めていたに違いないと考えてもさしつかえない。したがって、『魔笛』は『コシ・ファン・トゥッテ』の続編であり、解毒剤なのである。"(シャイエ,335頁)。
■"合唱が終わって、オーケストラの短い後奏でヴァイオリンが同じ旋律を奏でるとき、この壮麗に響くテーマの本当の性格が明らかになる。つまりこのメロデイーは、ザラストロや僧侶たちなどではなく、むしろパパゲーノにこそ似つかわしい、ほとんど俗謡といってもいいようなものなのである。・・・
結局モーツァルトは《魔笛》でも、これまでよりもずっと控え目なやり方ではあるが、完全なるフィナーレのカタルシスを最後になって軽くまぜっ返す。だがそのとき、音楽史で彼にしかなしえなかった、「礼節の弁証法」が完遂される。権威の敬意とそれに対するほどよい距離、真摯と軽妙、高邁な理念と等身大の幸せの間のギリギリのバランスの中で、「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に、互いに仲良� ��暮らしていくことの出来るユートピアが来るかもしれない」という希望が束の間きらめいて・・・そして一瞬で過ぎ去っていくのである。"(岡田,2008,p.210より)
■指揮者ロジャー・ノリントンは「魔笛には立派な哲学はない。音楽が素晴らしいので、ぼやけた言葉が際立って聞えるだけだ。金もうけのビジネスが目的であっても、天才は素晴らしい仕事ができるんだ」と言う(ドキュメンタリー映画『モーツァルトを探して』より)。
■【すべてのペアがハッピーか?】 賞品としてのパミーナは、男として合格したタミーノに抱きしめられ、壮大な祝典曲のフィナーレで、ますます居所なく蒼ざめる・・・なぜなら女たちは生きていけない世界なのだから。祝典曲は空疎な男の音楽である--という演出はある。
また、道化はザラストロの試練に落第したので、じつは闇の世界に「はぐれ鳥」となったままである。終幕の祝典曲にまぎれて主人のカップルといっしょに祝われる資格はない。
もうひとつ忘れられている不幸なペアがいる。夜の女王とザラストロである。モーツァルトはすべてを調和で包むと絶賛されるが、このペアは和解させることができなかった? (原研二、2006、p.52)
■【祝典オペラ 夜� ��女王とは?】 夜の女王が台本では「星のきらめく」という形容をつけられているところと、舞台絵では月とともに描かれていることに注意しておこう。この二つを目印(アトリビュート)とする女神はフォルトゥーナである。慈母かと思えば残虐の鬼母である気まぐれ女神フォルトゥーナは、ルネサンス・イタリア宮廷ではスーパー・ヒロインだった。その対抗ヒーローはウィルトゥ(力/徳)を備えたヘラクレスである。
たとえばボルジア家がルクレツィア・デステの婚礼に用意した祝典オペラでは、英雄ヘラクレスが運の女神フォルトゥーナを捕らえ縄打って、ボルジア・デステ両家の災いを取り除く身振りを演じて見せるのである。だからハプスブルグ家なども自分の祖先をヘラクレスだと主張したのだった。
十八世紀 フリーメーソンのイメージ戦略に重用される「闇を払う太陽」が《魔笛》の骨格となっている。が、それには「闇の女王」に勝利する「太陽王」というメルヘンが下敷きになっている。そしてそれはさらに「気まぐれ女神をいましめる徳」という寓意図を下絵にしている。宮廷の古臭い祝賀行事と新時代の啓蒙主義、フリーメーソンの世界観も、イメージ戦略としては、重層するメルヘンの想像力を行使する以外に有効な手法をもたない。(原研二、2006、p.52)
●初めて私が舞台で歌劇を見た2001年6月16日のチェコのブルノ国立歌劇場公演のデータを記しておこう。
(ダブル・キャスト、トリプル・キャストなので)。
*演出ヤン・カチェル、舞台美術ルボシ・フルーザ、衣裳デザインはヤン・スカリツキー
*指揮者ヤロスラフ・キズリンク、演奏ブルノ国立歌劇場管弦楽団、合唱指揮ヨゼフ・パンチーク、
*ザラストロ役リハルド・ノヴァーク、夜の女王ルビツァ・ヴァルギツォヴァー、
パミーナ役イヴェッタ・タンネンベルゲロヴァー、タミーノ役ゾルターン・コルダ、
パパゲーノ役ヤクブ・トラシ、パパゲーナ役モニカ・プリフトヴァー、
弁者アレッシュ・シュチャーヴァ、モノスタトス役ミラン・ルドレツキー、
第一の侍女ダニエラ・ストラコヴァー=シェドゥ� �ロヴァー、第二の侍女ヤナ・ナーベルコヴァー、
第三の侍女イトゥカ・ゼルハウオヴァー。
『魔笛』の視聴データは別ページへ(池田博明)
参考文献
【福山庸治『マドモアゼル・モーツルト』(河出書房新社)はモーツアルトが実は女だったというコミック】
シャイエ『魔笛 秘教オペラ』(1976年、白水社)
アッティラ・チャンバイ(編)『名作オペラブックス 魔笛』(音楽之友社)
アッティラ・チャンバイ(編)『名作オペラブックス 後宮からの誘拐』(音楽之友社)
Branscombe, Peter.1991. Die Zauberflote. Cambridge Opera Handbooks. Cambridge Univ. Press. 247p.
ヘレナ・マテオプーロス『ブラヴォー/ディーヴァ』(アルファベータ,2000.原著1986&1991)
ヘレナ・マテオプーロス『プラシド・ドミンゴ オペラ62役を語る(アルファベータ,2001.原著2001)
Helena Matheopoulos,"DIVA Great sopranos and Mezzos Discuss Their Art".1991Victor Gollantcz
ニール・リショイ『うぐいすとバラ エディタ・グルベローヴァ半生のドラマとその芸術』(音楽之友社,1999)
アニー・パラディ『モーツアルト 魔法のオペラ』(2005,白水社.原著1999)
石井清司『モーツアルトをめぐる人々』(2002年、ヤマハミュージックメディア)
井上太郎『モーツアルト、いき・エロス・秘儀』(1997年、平凡社ライブラリー)
岡田暁生『オペラの運命』(2001年、中公新書)
岡田暁生『恋愛哲学者モーツァルト』(2008年、新潮選書)
金子一也『オペラ魔笛のことが語れる本』(2004年、明日香出版社)
塩山千仞『魔笛 文明史の劇場』(1999年、春秋社)
西本晃ニ『モーツァルトはオペラ』(2006年、音楽之友社)
長野順子『魔笛 <夜の女王>の謎』(2007年、ありな書房)
原 研二『シカネーダー』(1999年、平凡社)
原研二『魔笛』(2006年、ショパン)
堀内修『オペラに乾杯』(ベストブック,1994)
吉村正和『フリーメイソン』(1989年、講談社現代新書)
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