2012年4月14日土曜日

なっとく童謡・唱歌 瀧廉太郎 池田小百合




箱根八里

作詞・鳥居 忱
作曲・瀧廉太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011年8月13日)


 【タイトルは「箱根八里」】
 「箱根の山は 天下の険」と歌い出されるため、タイトルを『箱根の山』と思い込んでいる人が多いようです。正しいタイトルは『箱根八里』です。
 箱根八里とは、幕府が設けた五街道のうちの東海道の一部で、小田原から静岡県三島までの八里(今の約三十二キロメートル)の山坂をいいます。その中間に箱根本関所があります。元和(げんな)五年(一六一九年)に開かれました。旅人は日の出前に小田原宿を出発し、箱根宿で昼休みを取った後、夕刻に三島宿へ到着するのが箱根越えの日程でした。

 【瀧廉太郎が作曲】
 明治三十三年(一九〇〇年)、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の教授で音楽通論と国語を教えていた鳥居忱(とりいまこと)が自作のこの詩を学生に見せ、「曲を付けるものはいないか」と聞いた時、瀧廉太郎ひとりが手をあげたといいます。瀧は当時二十一歳。難しい詩に明るく力強い曲が付いた時、鳥居はじめ全員が声も出ないほど驚いたといいます。

  東京音楽学校では明治三十四年出版の『中学唱歌』のために三十二年ごろから委嘱により集められた詩を公表して曲を懸賞募集していました。瀧は「箱根八里」「豊太閤」「荒城月(発表時の曲名)」を応募し、三曲とも入選しました。
 十六歳で東京音楽学校に入学、総代で卒業、研究科に進学して二年生でピアノ授業嘱託(助教授)に任命された翌年の事です。

 【曲集『中学唱歌』について】
 明治三十四年(一九〇一年)三月三十日、東京音楽学校蔵版で共益商社楽器店から発行された文庫判の小形の曲集。
 明治三十一年頃から中学校用の歌集編纂が議論され、その結果音楽学校が中心になって準備が進められました。まず、広く世の文学者、教育家、音楽家に作詞作曲を依頼し、また一方では作詩を公表して作曲を一般から募集しました。条件は一人三種以内、賞金は一曲入選につき五円支払われました。 こうして集まった二百余曲の中から三十八曲を選び、曲集『中学唱歌』を作りました。


                        ▲『中學唱歌』(東京音楽学校蔵版、共益商社楽器店、
                         明治三十四年(一九〇一年)三月発行 扉

 【三曲が入選】
 瀧は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)編『中学唱歌』の懸賞募集作品として「箱根八里」「豊太閤」「荒城月」の三曲の作曲(メロディーのみ)を応募して三曲共に入選しました。賞金十五円を受け取りました。当時の小学校教員の初任給が十円から十三円だったので、これは大金です。彼は、大分の母に丸髷の型を、妹にはかんざしを、下宿先の瀧大吉の奥さん民子には木のタライを贈り、残ったお金で、おしるこを友人に御馳走したと伝えられています。
 明治三十四年三月三十日『中学唱歌』が出版されました。瀧は、初版を手にして感慨無量でした。一週間後の四月六日にドイツ留学に旅立ちました。

 【初出】
 『中学唱歌』に掲載された曲名は「箱根八里」です。瀧廉太郎が発表したのは、メロディーだけで、伴奏はついていません。
 旋律は、ハ長調(C Dur)、四分の四拍子。ヨナ抜き長音階で作られている。今までのように一つの音符に日本語の一音ずつを付けるのではなく、二音または三音をあてる方法を用いたため、これが曲に力強さを与えている。
 基本のリズムはタッカですが、言葉の持つリズムを生かして、「万丈の山 千仞の谷」のようなシンコペーション、「雲は山を」「霧は谷を」のような三連符などを取り入れたことは効果的で新鮮です。
 三十二小節、唱歌としては大変長いものになっています。


全体の残りの部分はどのように多くのビートを取得するのですか?

 【歌詞について】  
 鳥居忱(とりいまこと)の歌詞には「第一章 昔の箱根」「第二章 今の箱根」と副題がついています。漢文を下敷きにした格調高い文語体の歌詞は難しく、なかなか理解しにくい部分があります。 (写真は復元された関所と石畳の箱根路)

 「第一章 昔の箱根」
  ・「険」とても険しい場所。
  ・「函谷関」中国河南省(かなんしょう)の西北、黄河の近くにあった昔の関所の名前。深い函(はこ)のように切り立った地形なので、こう呼んでいる。一兵士で千万の敵を防げるとまで言われた狭く険しい道の所にあった関所。
  ・「丈」「仞」は長さの単位。「万丈」と「千仞」は対になっている。「非常に高い」「非常に長い」という意味。「とても高い山」「とても深い谷」が、前後に迫り来るということ。
  ・「羊腸の小径」羊の腸のように長く入り組んだ細い道。
  ・「一夫関に当るや万夫も開くなし」一人の兵が守っていれば、万の敵でも落とせない要害の砦。
  ・「天下に旅する剛毅の武士」この武士は何時代のどのような武士か?
  「天下に旅する」とあるので、武者修行か? 軍事か? 「大刀」と「足駄=げた」から僧兵、野武士、山武士も考えられますが、はっきりしません。
  「往時」=(過ぎ去った時。昔。) 昔といっても江戸時代の武士なのか?  鎌倉武士なのか?はっきりしません。
  それらの武士を思い出して「斯くこそありしか」と結んでいる。
  <諸国を旅する勇士たちは、大刀を腰に携え、小田原から三島までの約八里の険しい山道を下駄を履いて勇ましく歩いたことだろう>

 「第二章 今の箱根」
  ・「阻」とても険しい場所。
  ・「蜀の桟道」の「蜀」は、中国四川省付近の地方を指していう名称。肥えた土地と、要害とをもって知られていた。その「蜀」へ行くには、途中、阻(けわ)しい山道(断崖絶壁の検阻な道)にかけ橋が渡してあったそうで、それが「蜀の桟道」といわれていた。交通の難所として知られていた。そんな「蜀の桟道」よりも箱根の山はもっと険しい。
  ・「万丈の山」から以下、その表記は全く同じ文です。
  ・最後の三行だけが、『今の箱根』を歌っている部分と言う事になります。一番の「天下に旅する武士」が、二番では「山野に狩りする壮士」に、「大刀腰に足駄がけ」が「猟銃肩に草鞋がけ」に、「踏み鳴らす」が「踏み破る」に、「「斯くこそありしか」が「斯くこそありけれ」に、「往時の武士」が「近時の壮士」に改まっているだけです。
  ・「近時」(ちかごろ。このごろ。) 第二章は、「今の箱根」を歌っているのですが、この作品が作られた、明治三十年代の箱根ということになります。
  ・「壮士」勇ましく立派な男子。ここでは、「猟銃肩に草鞋がけ」から猟師のこと。それらの猟師を思い「斯くこそありけれ」と結んでいる。
  <山野で狩りをする勇士は、猟銃を肩にかつぎ草鞋を履いて八里の険しい山道を踏破する>

   発表後、歌詞について意見が続出しました。明治三十四年七月二日、初版の後出た第二刷で第二章の歌詞が一部改訂されました。

 【歌詞の改訂があった】
  『中学唱歌』の披露演奏会が、明治三十四年(一九〇一年)五月十九日午後二時より東京音楽学校奏楽堂にて開催された。三十八曲中の十曲が演奏発表され、瀧の入選曲三曲もふくまれていた。出席者には「中学唱歌音楽演奏会歌題」と書いたパンフレットが渡され盛大に行われた。「箱根八里」は、小山作之助の「寄宿舎の古釣瓶(つるべ)」とともに最も好評を博した。
  しかし発表後、歌詞について意見が続出した。この意見については大分県先哲叢書『滝廉太郎 資料集』平成六年三月三十一日発行で見る事ができます。大変率直で厳しいものです。
 明治三十四年七月二日、初版の後出た第二刷で改訂された。改訂は鳥居忱自身が改作したか、誤植だったものを訂正したかのどちらかと考えられます。改訂部分を見ると、「披露演奏会後、歌詞について意見が続出した」にもかかわらず、その意見は全く反映されていない。
 
  『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)に掲載されている明治三十六年(一九○三年)十月発行(第七刷)を見ると、「山野に狩する剛毅の壮士」が(山野に狩する剛毅の健兒)に、「斯くこそありけれ近時の壮士」が(斯くこそあるなれ當時の健兒)と変えられています。これが原詩で、誤植だったものを訂正したのでしょうか。鳥居忱の自筆原稿を見たいものです。
 ●『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)に掲載されている「箱根八里」は、明治三十六年十月発行(第七刷)のもので、『原典』ではない。
  初出『中学唱歌』(初版)の歌詞は「山野に狩する剛毅の壮士」、「斯くこそありけれ近時の壮士」で動かしがたい。初版は、大分県先哲叢書『滝廉太郎 資料集』平成六年三月三十一日発行で確認できます。現在一般に歌われているのは初出の歌詞です。
  (註)「浜辺の歌」も、現在歌われているのは初出の歌詞「はまべ」です。


あなたは、samとジャックを正確に何を意味するのでした

 一方、瀧廉太郎は、『中学唱歌』の披露演奏会と、第二刷の歌詞の改訂を知りません。明治三十四年三月三十日『中学唱歌』が出版され、一週間後の四月六日にドイツ留学に旅立っているからです。


  <なぜ、「壮士・ますらを」を「健兒・ますらを」にしたか>
 「ますらを」は、「手弱女・たをやめ」に対して、勇ましく立派な男子ということ。「益荒男・ますらを」「丈夫・ますらを」とも書きます。この場合、登場者が<猟師>なので、「壮士」より「健兒」の漢字をあてた方がよいと判断したので「健兒」に改めたのでしょう。
 現在、初出の歌詞「山野に狩する剛毅の壮士」で歌われています。後世では、猟師を指して「壮士」という用例もあるそうです(中村幸博編著『読んで楽しい日本の唱歌T』右文書院による)。
 乱暴な言い方をすると、歌ってしまえば「山野に狩する剛毅の壮士(ますらを)」と「山野に狩する剛毅の健兒(ますらを)」は同じなので、この改作が研究者の話題になる事は、ほとんどありません。

  <「當時」に変えた>
 「近時」=(ちかごろ。このごろ。) 「當時(たうじ)」=(現在。今。そのとき。そのころ。) いずれも明治を指すので、どちらを使っても問題はない。

  <二版から(斯くこそあるなれ)と変えられた>
 (斯くこそあるなれ當時の健兒)と変えられた。山田耕筰編曲も、本居長世編曲もこの改訂版の歌詞を使っている。しかし、現在一般に歌われているのは初版の歌詞です。この初版の歌詞は、だれでも見る事ができ、動かしがたいものだからです。

  【山田耕筰が編曲】
 瀧廉太郎作曲の「箱根八里」は、発表当時無伴奏でしたが、山田耕筰が伴奏を付け編曲し、「箱根の山」のタイトルでテノール歌手・藤原義江の帰朝音楽会で発表しました。独唱版楽譜の出版は昭和二年九月。現在、山田耕作伴奏楽譜は藍川由美(編)『日本の唱歌』(音楽之友社、2006年)で見ることができます。不許複製なので紹介できませんが、一部を示します。

 <伴奏を詳しく見ましょう>
  ・この伴奏譜は難しい。ピアノ伴奏のプロでなければ容易に弾きこなせない。
  ・テノール歌手・藤原義江のために音を一音高く二長調(D Dur)にしたため、最高音がFisとなり、一般の人には歌えない。
  ・編曲の際、歌いやすいように所々リズムを変えた。
  ・一番気になるのは、「羊ー腸の」の部分です。「羊」を二拍伸ばし、「腸」がFisになるように書いてあります。この方が歌いやすい。
  ●本居長世の伴奏で「羊」を二拍伸ばし、「腸」がFisになるように歌う人がありますが、それは間違いという事になります。このように歌うのは、山田耕筰の編曲の伴奏で歌う場合です。瀧廉太郎も本居長世も「羊腸ーの」と歌うように書いている。

  【本居長世の編曲】
 本居長世は、本居長世編『世界音楽全集17 日本唱歌集』(春秋社版)昭和五年(一九三〇年)十一月十五日発行で次のように自ら解説※し、伴奏を発表しています。
 ※「何と云(い)ふ生気溌剌(はつらつ)たる歌曲であらう。兎角(とかく)安価な感情的の歌曲の流行する時、斯(こ)うしたものは確かに一服(いっぷく)の清涼剤で無くて何だらう。行進曲風の伴奏を附して置いた。男生に絶好(ぜっこう)の教材」。
 注目したいのは「行進曲風の伴奏を附して置いた」という部分です。四小節の前奏はメンデルスゾーンの『結婚行進曲』を模している

  (註)本居長世は、「青い眼の人形」では、前奏二小節にバッハ作曲の「トリオソナタ第六番ト長調BWV530」の冒頭テーマを使っています。また、草川信は、「汽車ぽっぽ」でシューベルトの『軍隊行進曲』を模した前奏を書いている。


 山田耕筰の伴奏より本居長世の方がわかりやすい。現在一般的に歌われているのは、『中学唱歌』の初出の歌詞で、本居長世編曲の伴奏楽譜が使われている。「一夫關ニ」と「カクコソ」の二ヶ所、リズムを改作している。「いーぷ かん に」「かーく こ そ」と歌うようになっている。力強さが強調される。この二ヶ所は、山田耕筰も同じように改作している。本居長世が山田耕筰の編曲を見た可能性があります。
  (註)「荒城の月」では山田耕筰が「ちーよのまつがえ」と歌うようにリズムを改作している。現在は「ちーよのまつがえ」と歌われている。

 <二番の歌詞 初出との比較>
  ●「箱根の山は 天下の阻」が(箱根の山は 天下の険)になっているのは誤植。
  ・「山野に狩する剛毅の壮士」が(山野に狩する剛毅の健兒)に、「斯くこそありけれ近時の壮士」が(斯くこそあるなれ當時の健兒)と改訂されたものを使っている。 山田耕筰が編曲しようとした際、手にした瀧廉太郎の楽譜は、改訂された第二刷以降のものだった事がわかります。本居長世は、山田耕筰の楽譜を見ているので、同様に二刷以降の歌詞を使った。


人は音を発明した?

 <伴奏楽譜 初出との比較>
  ・「はこねのやまは 天下の阻」となっていて、初出と同じ。
  ・「羊腸ーの」と歌うように書いてある。瀧廉太郎も同様。
  ●「山野にたびする剛毅のますらを」は「狩りする」の誤植。
  ・「かくこそあるなれ當時のますらを」と改訂されたものを使っている。
  ・「一夫關ニ」のリズムは、「ターンタタンタン」。初出は「ターンタターンタ」。
  ・「カクコソ」のリズムは、「ターンタタンタン」。初出は「ターンタターンタ」。 現在、一般的に歌われているリズムは「ターンタタンタン」の方です。
  ●長田暁二編『日本抒情歌全集1』(ドレミ楽譜出版社)に掲載されている「箱根八里」の楽譜は、山田耕筰編曲となっているが、「本居長世編曲」の間違い。これは重大なミス。さらに、「万夫も」=「ターアータンタン」が「ターンタタンタン」に変えられている。
  ●奥村美恵子著『神奈川の歌をたずねて』神奈川新聞社発行は、長田暁二編『日本抒情歌全集1』を使っているので、同じ間違いです。

 【『日本童謡唱歌大系』の「箱根八里」の検証】
 後世に残すために作られた『日本童謡唱歌大系T』(東京書籍)に掲載されている「箱根八里」の楽譜を見ました。
  ・タイトルは「箱根八里」です。
  ・歌詞は初出の歌詞です。
  ・「羊腸ーの」と歌うようになっている。
  ・「万夫も」は「ターアータンタン」。
 ●「鳥居恍 詩」と間違っている。「鳥居忱 詩」が正しい。
 ●滝廉太郎作曲となっていて、本居長世編曲とは書いてありませんが、使われている伴奏譜は、本居長世編曲の楽譜です。「本居長世編曲」と書くべきです。
 ●「一夫關ニ」のリズムは、初出の「ターンタターンタ」になっている。本居長世編曲では「ターンタタンタン」に改作している。
 ●「カクコソ」のリズムは、初出の「ターンタターンタ」になっている。本居長世編曲では「ターンタタンタン」に改作している。 以上のように編集者が勝手に手を加えたものが掲載されている。これを見た人は混乱します。

 【瀧廉太郎の略歴】
 明治十二年(一八七九年)東京で生まれ、明治三十六年(一九〇三年)大分で没するまで、わずか二十三歳十ヵ月の生涯だった。

 【鳥居忱(とりいまこと)の略歴】
  ・嘉永六年(一八五三年)八月二十二日、江戸大名小路若年寄役屋敷で生まれた。本名は忠一(ただかず)、初名を尾巻(おまき)、通称忱(まこと)といいました。父は壬生(みぶ)藩江戸家老職だった忠敦(ただあつ・志摩)で、母は登與(とよ)。祖先には徳川家康の家臣で徳川十六神将の一人、鳥居元忠(もとただ)がいる。
 (註) 嘉永6年(1853年)アメリカの東インド艦隊率いるペリー提督が来航。6月3日(7月8日)、4隻の黒船で浦賀沖に到着。
  ・幼くして皇漢学(中国の王室に関する学問)や漢学(漢文によって旧中国文化を研究する学問)を学ぶようになる。維新後、藩命を受けて明治三年(一八六七年)には大学南高でフランス語を学び、また外国語学校にも入っている。
  ・明治十三年(一八八〇年)、音楽取調掛が発足して伝習生を募集すると聞き応募、初の伝習生に採用された。一八八〇年にキリスト教の宣教師として来日し、日本の音楽教育の基礎を築いたメーソンに師事して洋楽を学んでいます。
  ・明治十五年(一八八二年)、音楽取調掛(とりしらべがかり・後の東京芸術大学の前身)を首席で卒業。卒業後、直ちに助手に採用され、明治二十四年(一八九一年)には和漢文と音楽理論を受け持つ教授となった。生徒の中に瀧廉太郎がいた。 大正初年までの間に音楽取調掛、文部省および音楽学校で出版した音楽図書で彼の手を経なかったものは一つもなかったそうです。
  ・大正二年(一九一三年)まで東京音楽学校教授として活躍。西洋音楽を広く日本に紹介した先達者としての功績は大きい。大正六年(一九一七年)五月十五日、満六十七歳で亡くなりました。

 【教科書での扱い】 小学校音楽共通教材(歌唱)、中学校音楽共通教材(歌唱)に、「箱根八里」は選ばれていません。
  ・平成21年発行、東京書籍『新しい音楽5』(滝廉太郎の歌曲) 「箱根八里」初出譜一番と、「花」と「荒城の月」を掲載。
  ・平成21年発行、教育出版『音楽のおくりもの6』(滝廉太郎のうた) 「箱根八里」初出譜一番と「荒城の月」を掲載。
  ・平成21年発行の中学、高校の音楽の教科書には「箱根八里」は掲載されていません。
  ・昭和32年発行 音楽之友社『中学生の音楽1』には、「荒城の月」と参考曲として「箱根八里」の一番が掲載されています。ハ長調 旋律だけ。滝廉太郎作曲と紹介されていますが、初出とリズムがあちこち違います。「はこねのやまは タッカタッカタタタン」、「しりえにさそう タッカタッカタタタン」、「羊ー腸の」、「一夫関に ターンタタンタン」、「かくこそ ターンタタンタン」など。これは山田耕筰編曲のリズムです。「小径は タンタンタンウン」ここだけ編集者が直している(山田耕筰編曲はターアータンタ八分休符)。ハ長調で掲載されている。編集者(堀内敬三 小出浩平 下總皖一 井上武士 ほか)が山田耕筰編曲の楽譜を見ていることがわかります。



  ・昭和34年発行 教育芸術社『中学音楽3』には、市川都志春編曲の混声三部合唱が掲載されています。ハ長調 伴奏譜は付いていません。
  ・昭和33年発行 講談社『総合中学の音楽3』にも混声三部合唱が掲載されています。ハ長調 伴奏譜は付いていません。編曲者名はありませんが、編集代表に小松耕輔 高山清司の名があります。
 (註)山田耕筰は、大正13年(1924年10月)にセノオ音楽出版社から女声三部合唱用の編曲版を出版している。

  ・昭和56年から58年度使用 音楽之友社『精選中学生の音楽 伴奏編3』教師用。 本居長世編曲と書いてある。伴奏譜は本居長世編曲のもの。歌詞は初出が使われている。二番は「かくこそ ありけれ きん(近)じ(時)のますらお(壮夫)」となっている。「羊腸ーの」と歌うようになっている。ハ長調。
 ●しかし、「いっぷ かんに ターンタ ターンタ」、「かく こそ ターンタ ターンタ」となっていて、本居長世の編曲と違う。長世は「ターンタタンタン」。

 【歌碑】
  ・箱根の芦ノ湖畔、神奈川県立恩賜箱根公園に歌碑が建てられています。昭和四十一年(一九六六年)五月除幕。
  ・箱根町芦之湯の「きのくにや旅館」の新館玄関前横には、「瀧廉太郎 箱根八里 作曲之碑」として石碑が立っています(昭和六十年七月九日除幕 十代目儀三郎が建立。歌詞と楽譜については不明の点がある)。瀧は、音楽学校の学生の時、よくここを訪れ、結核の療養をしています。「きのくにや旅館」で『箱根八里』の曲想を練り、曲を完成させたと伝えられています。「きのくにや旅館」九代目主人のめいが瀧の義妹だそうです。
 星野辰之著『日本のうた唱歌ものがたり』(新風舎)には次のように書いてあります。"「きのくにや」と滝廉太郎との経緯は、滝の親戚で東京在住であった大阪朝日新聞社主幹・土屋元作氏が、きのくにやの八代目シロの次女セキと結婚したのが縁で、廉太郎が夏の避暑と療養のために訪れたこと� ��ある。"

 【さあ、歌おう】
  ・文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていません。
  ・足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)にも、掲載されていません。 みんなで歌わなければ「箱根八里」が消えてしまいます。
 私・池田小百合が主宰している童謡の会では、初出の歌詞で、本居長世編曲の伴奏譜で歌っています。最初に「羊腸ーの」と歌う事、「一夫關ニ」「カクコソ」のリズムは「ターンタタンタン」であることを確認してから歌っています。本居長世の伴奏は好評です。 この歌で一番大切な事は、リズムを正しく、はぎれよく歌う事です。特に、スキップのリズムや三連符のリズムをはきはきと歌いましょう。但し、「昼猶闇き」の部分は、なだらかにしかも堂々と歌いましょう。特に男性に好まれる歌です。

 (註)私の童謡の会で使っている楽譜は、真篠将・浜野正雄編『少年少女歌唱全集 日本唱歌集(3)』(ポプラ社)昭和36年5月10日発行に掲載されているものです。昭和30年代は、中学校でこの楽譜が使われ歌われていました。この全集は好評で、どこの図書館にも置いてありましたが、今は除籍図書となっています。絶版。

 【ダークダックスの喜早哲さんの感想】
 格調高いが、漢詩調の難解な表現が多く、ダークダックスの喜早哲さんは、その著『日本の抒情歌』(誠文堂新光社)の中で「歌って疲れる歌」と言っている(吉田悦男著『うたの里を行く』(舵社)より抜粋)。

 【もう一つの「箱根の山」】
 野口雨情の詩に山田耕筰が作曲した「箱根の山」があります。これは童謡です。『童謡百曲集』第三集 第52曲(日本交響樂協会出版部)。昭和二年(1927年)11月15日発行に収録されています。国立音楽大学附属図書館で所蔵しています。 この曲は、小松耕輔編『世界音楽全集11 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行でも見る事ができます。
 (註)私、著者・池田小百合が以前から言っているように、この全集は研究者は必見です。この全集についての分析は、金田一春彦著『十五夜お月さん』(三省堂)に詳しく書いてあります。これも必見です。


 【後記】  箱根には沢山の保養所や旅館、ホテルがあります。二人の娘たちが小さかった頃、おじいちゃんが運転する車に乗って一泊旅行に行きました。宴会場で夕食になりました。箸袋に「箱根八里」の最初の歌詞が一行書いてありました。それを見た娘たちが「この歌は、お母さんが歌えるよ」「お母さんは、歌が上手なんだよ」と配膳係の人に言いました。すると、配膳係の女性が、「じゃあ、歌ってもらおうかしらねえ」と拍手をしたのです。まわりにいた人たちも拍手をしました。「ひとつ、歌ってやれよ」とおじいちゃんまで言いました。もう、後に引けなくなり、歌い出すと、手拍子が入り、みんなも歌い出しました。宴会場は大合唱となりました。みんなが知っていて歌いました。大勢の大人に交じって、娘たちも手拍子をし、嬉� ��そうでした。おじいちゃんはお酒が入って上機嫌でした。「箱根八里」を歌うと、この時の事を思い出し冷や汗が出ます。さぞ、作曲者の瀧廉太郎は驚いたことでしょう。箸袋に「箱根八里」の歌詞が書いてあるとは、洒落ていますが、どこに宿泊したかを覚えていません。

【著者より引用及び著作権についてお願い】
≪著者・池田小百合≫


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